大友 克洋

 言わずと知れた、日本が誇るアニメ界の巨匠。最近はほとんど描いていないようだが、元々は漫画家。
 近未来的なテーマのアニメ作品が発表されると、その制作に携わっていなくても、必ずと言って良いほどこの人の名前が何らかの形で引き合いに出される。日本人では珍しく、慌てふためいたように頻繁に作品を発表はせず、一本の映画に一体何年かけるのか、そしていつまでファンを待たせれば気が済むのか、想像を絶するほどの徹底した拘り方・煮詰め方をする。
 漫画界では、劇画ブームの時期にそうしたジャンルの追随に留まらず、映画的な演出法を確立した先駆者であるとされている。そうした映画的に演出された他の作品に対して、「大友的」と評される事もしばしばあるほどだ。また、大友克洋が一世を風靡してからは、ロックで言うところの「フォロワー」が後を絶たなかったという。
 作品を見て感じるのは、単純に何かを伝えたいというようなメッセージ性よりはむしろ、とにかく自分はこれをやりたいんだ、これをやっているのが楽しいんだ、このクオリティーで見せたいんだ、そうそう、これもやりたかったんだ…という、果てしなく湧き出る大きな創作意欲だ。一作品の中の、それを構成する1つ1つの要素全てが主張であり、また作品のコンセプトなのだと思う。
 私が大友克洋を知ったのは中学時代。私とは違ってオシャレを気取った連中が、『アキラ』という題名をよく口にしていたのが気になっていた。聞けば凄い作品だとか何だとか。ちょうど時期を同じくして、その映画が深夜にテレビ放送されたのを観て、大きな衝撃を受けた。以降、大友克洋の世界観に魅了され、手に入るだけの漫画作品をかき集めるに至ったのだった。才能のあるクリエーターには、アイデアと意欲さえあれば、好き放題させた方が良いモノが出来るのだという事を、その作品を通して教えてくれた。
 見た事のある方ならご存じだとは思うが、私が描いた漫画や落書きは、流行に遅すぎるタイミングで乗っかったように、その影響がモロに出ていて恥ずかしい。
 漫画描き(または漫画好き)を名乗っているのに、この名前や作品を知らない奴は私からしてみれば、モグリだ。

2006.5.19

 

AKIRA(1982〜1990)

 

 代表作。画像は5巻。単純にこの絵が好きだから。リンクは1巻。
 21世紀の今となっては、近未来世界が舞台で超能力がテーマなどという事を聞いただけで「ええぇ〜…」となりそうな気がするが、ひょっとしたら、それはこの作品のせいなのではないか?とも思えてきた。誰かが似たようなネタを使ってしまった日には、漫画好きは当然『AKIRA』を連想するだろうし、また同時に比較もされてしまうだろう。そうなれば、新参者の負けが99.9%確定してしまう。
 あまりにも飛躍した設定で、しかもストーリー全体のちょうど中間地点で舞台が崩壊してしまうというとんでもない構成、漫画描きでなくとも見た者を唸らせる緻密でリアルな絵、複雑かのように見えて実は大衆娯楽的な分かりやすさも備え、そして全くもって先が読めず、最終的には宇宙の始まりという所にまで話題を持って行くスケールの壮大さ…。と、褒めればキリがない。
 講談社の編集者に聞いた話なのだが、この作品の大きな特徴として、キャラクターそれぞれの人物像や背景がほとんど語られていない事が挙げられるという。そして、そんな事が許されるのはこの作品だけだ、と。「それがまかり通っちゃってるって事は、他の所が凄すぎるって事ですからね。そんな作品描ける人なんてまずいないですよ」と。高校生だった私は、それを聞いてハッとさせられ、さらなる衝撃を受けた。
  そう、大体の漫画は、キャラクターに対して感情移入しやすいように、その人物背景や心理を、回想シーンや夢のシーンなどを多用して表現する事が非常に多い。だが『AKIRA』では、それを語られているのは鉄雄一人だけだ。他のキャラの事はほとんど何も分からないままなのだ。そうした人間ドラマ的な感情移入なしに、一体どうしてここまで読む者を惹き付けられるだろう。
  凄いの一言だ。長々と書いておいて何だが、それだけで十分かも知れない。
 この作品以降、大友克洋はほとんど漫画を描かなくなってしまった。いちファンとしては是非新作をと言いたい所だが、おそらく、アニメ制作に完全にハマってしまったのと、ひょっとしたら「漫画でやりたかった事はやっちゃった」という感もあるのかもしれない。

2006.5.19